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モリエールの「粗忽な男」(L'ETOURDI OU LES CONTRETEMPS)が面白い!レリのあまりの空気の読めなさに笑ってしまいます。マスカリーユの活躍と痛快な発言も魅力です。
「場違い」とか「とちってばかり」という意味には、原題の"CONTRETEMPS"という単語がぴったりという気がします。
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「場違い」とか「とちってばかり」という意味には、原題の"CONTRETEMPS"という単語がぴったりという気がします。
松本清張の連作小説「死の枝」を読み始めています。精神鑑定で精神分裂症と判断されるために画策する男や、交通事故に見せかけた殺人を誘因する男女など、面白すぎて夜中まで読んでしまいそうです。
17世紀フランスのモラリスト、ラ・ブリュイエールの「カラクテール」を読んでいます。毒舌ですw新旧論争で極端に古代派なところも、なんだか微笑ましい(笑)
凡ては言ひつくされた。人は余りにも遅く来た。
(「カラクテール」関根秀雄訳より)
凡ては言ひつくされた。人は余りにも遅く来た。
(「カラクテール」関根秀雄訳より)
モリエールの「学者気どりの女たち」(LES FEMMES SAVANTES)を読みました。「才女気どり」(LES PRECIEUSES RIDICULES)と同様、知識や教養をひけらかして気どった女たちを描いた喜劇です。
言葉遣いが正しくないというだけで下女を解雇しようとしたり、次いでは肉体的な愛と精神的な愛はどちらが優れているか、といった議論の中で肉体を「くず」とまで言い放ったりするとんでもなく過剰な女たちが登場します(笑)
当時のサロンには言語表現、礼儀作法に過剰なまでの洗練を求める「プレシオジテ」の風潮があったそうで、その風潮を揶揄するところに、モリエールの笑いだけでなく、深い問題意識があるようにも思います。
齋藤孝氏が著書『過剰な人』の中で、ドストエフスキーの作品における登場人物の「過剰」に作品の面白さがあると話していましたが、モリエールの喜劇も、その「過剰」に面白さと深さがあるのかもしれません。
言葉遣いが正しくないというだけで下女を解雇しようとしたり、次いでは肉体的な愛と精神的な愛はどちらが優れているか、といった議論の中で肉体を「くず」とまで言い放ったりするとんでもなく過剰な女たちが登場します(笑)
当時のサロンには言語表現、礼儀作法に過剰なまでの洗練を求める「プレシオジテ」の風潮があったそうで、その風潮を揶揄するところに、モリエールの笑いだけでなく、深い問題意識があるようにも思います。
齋藤孝氏が著書『過剰な人』の中で、ドストエフスキーの作品における登場人物の「過剰」に作品の面白さがあると話していましたが、モリエールの喜劇も、その「過剰」に面白さと深さがあるのかもしれません。
アリストパネースの喜劇『女の平和』を読みました。ところどころに猥雑な表現があって面白い劇です。翻訳を読んだだけでも笑えるような直截的な台詞もありますが、他方で、高度な駄洒落やパロディを用いたものもあるようです。
たとえばカロニーケーの台詞に「なあに、あの連中は間違いなく朝早く伝馬にのって海を渡っているわよ」というのがありまして、この部分の訳注を見ると、
「伝馬」とここに訳したkelesは「乗馬、俊馬」または「小船の一種」の意味であって、これは一方においてはなはだ淫猥な意味を有する。なお、「朝早く」にもまた特別な意味があった。
とあります。「はなはだ淫猥な意味」と「特別な意味」って何だww訳注も何もなければ何の考えもなく読み流してしまう一言なのに、こういう指摘があると何のことだか気になって仕方がありません(笑)
(引用は高津春繁訳『女の平和』からとったものです)
たとえばカロニーケーの台詞に「なあに、あの連中は間違いなく朝早く伝馬にのって海を渡っているわよ」というのがありまして、この部分の訳注を見ると、
「伝馬」とここに訳したkelesは「乗馬、俊馬」または「小船の一種」の意味であって、これは一方においてはなはだ淫猥な意味を有する。なお、「朝早く」にもまた特別な意味があった。
とあります。「はなはだ淫猥な意味」と「特別な意味」って何だww訳注も何もなければ何の考えもなく読み流してしまう一言なのに、こういう指摘があると何のことだか気になって仕方がありません(笑)
(引用は高津春繁訳『女の平和』からとったものです)
この春休みはモリエールとラシーヌの全集を読み、かつギリシアの悲喜劇にも触れてみよう!などと想像していたのですが、なかなか進んでいません(笑)
ところで明日はモリエールの喜劇「スガナレル」(是枝正彦演出)を観に行きます。副題に「あるいはコキュにされたと思った男」とあるように、ある小さなきっかけから妻を寝取られたと勘違いしてしまった男を中心に、登場人物同士で勘違いが錯綜していきます。モリエールらしい笑いの劇を是枝さんがどのように演出しているのかが楽しみです。
ちなみに今朝はお店で接客、このあと夜には家庭教師…風邪の治る暇がないww
ところで明日はモリエールの喜劇「スガナレル」(是枝正彦演出)を観に行きます。副題に「あるいはコキュにされたと思った男」とあるように、ある小さなきっかけから妻を寝取られたと勘違いしてしまった男を中心に、登場人物同士で勘違いが錯綜していきます。モリエールらしい笑いの劇を是枝さんがどのように演出しているのかが楽しみです。
ちなみに今朝はお店で接客、このあと夜には家庭教師…風邪の治る暇がないww
カエサルのガリア戦記を友人と読み合わせることにしました。外国語の文体や語感を感じとることはほとんど不可能なことなのかもしれませんが、学ぶ姿勢として意識しているのは、なるだけその言語で書かれた名文に触れようということです。
ロドリゲスの「日本語小文典」の序にあるような、「誤りを含まぬ美しいことば、優美な言葉遣いの基礎を自分のものとし、澄んだ泉に立って、日本語の泉を飲」むという姿勢を、自分が外国語を学ぶ上でも模範にしたいと思っています。
ロドリゲスの「日本語小文典」の序にあるような、「誤りを含まぬ美しいことば、優美な言葉遣いの基礎を自分のものとし、澄んだ泉に立って、日本語の泉を飲」むという姿勢を、自分が外国語を学ぶ上でも模範にしたいと思っています。
漱石の「坊っちゃん」
反俗精神に満ちた主人公が、「正義と微笑」(太宰治)の芹川進に似ている気がします。
奔放な文体と、「ぞなもし」「かなもし」とかいう方言が素敵です(笑)
反俗精神に満ちた主人公が、「正義と微笑」(太宰治)の芹川進に似ている気がします。
奔放な文体と、「ぞなもし」「かなもし」とかいう方言が素敵です(笑)
「私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。枯枝とちがいますわ」
(「斜陽」より)
こんなふうに、生きたい。
(「斜陽」より)
こんなふうに、生きたい。
職場の方に薦められて以来、加藤周一さんの「日本文学史序説」は僕の座右の書です。和、漢、洋にわたる広範な読書量と縦横無尽な引用、既存の固定観念にとどまらない文学観、史観によって綴られているこの文学史は、国文学の底しれぬ魅力ばかりでなく、加藤さん自身の魅力に満ちた書であるように感じます。複雑で多様な国文学史の全容を描くことだけでも困難であろうに、漢、欧の影響や比較を織りまぜながら語っていくなど、とてもひとりの人間の仕事とは思えません。
まさに不世出の方であったのだと、悼まれます。
まさに不世出の方であったのだと、悼まれます。
思はぬ人を思ふなりけり
(古今集)
流れる水に文字を書こうとすることのはかなさ、むなしさが、片恋の心情を巧みに表しています。
高校のころにこれを読んで、「水に文字を書く」という発想と「思はぬ人を思ふ」という表現に惹かれたのを覚えています。
最近、西洋にも同じような表現を見つけました。それは、en hydati grapheinというギリシア語で、まさに「水に書く」ということをむなしさの比喩としたことわざだそうです。
西洋から学ぶことの多い日本人ですが、まずは国学についての深い素養、自国文化の「根」がないと、知識もなにも活かすことはできない気がします。鴎外や漱石は西洋の学問に精通しながら、それ以上に和漢の典籍から深く自らの根を吸収していたところがすごい…
日本の古典や漢文も学ばねば、と痛感しています(笑)
(古今集)
流れる水に文字を書こうとすることのはかなさ、むなしさが、片恋の心情を巧みに表しています。
高校のころにこれを読んで、「水に文字を書く」という発想と「思はぬ人を思ふ」という表現に惹かれたのを覚えています。
最近、西洋にも同じような表現を見つけました。それは、en hydati grapheinというギリシア語で、まさに「水に書く」ということをむなしさの比喩としたことわざだそうです。
西洋から学ぶことの多い日本人ですが、まずは国学についての深い素養、自国文化の「根」がないと、知識もなにも活かすことはできない気がします。鴎外や漱石は西洋の学問に精通しながら、それ以上に和漢の典籍から深く自らの根を吸収していたところがすごい…
日本の古典や漢文も学ばねば、と痛感しています(笑)
先日わが家に来た客が飲めや食えやのぶっ飛んだお方だったので、太宰治の「親友交歓」を思い出してしまいました(笑)
太宰治はこの話を、東京から津軽へ帰郷した時に起きた実話であるというような書き方をしています。それまで東京で「最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、所謂最下等の人物たちと語り合っていたものであって、たいていの無頼漢には驚かなくなってい」たという彼をして、
しかし、あの男には呆れた。とにかく、ずば抜けていやがった。
と言わしめたとんでもない「親友」と太宰とのやりとりが絶妙です。その親友のあっぱれな言動は、物語の中でものすごい力をもって加速していきますが、ことに最後の一行があまりにも素晴らしいのです。手をたたきたくなるほどですwここにその一行を書くのは惜しいのでやめておきます(笑)
太宰治はこの話を、東京から津軽へ帰郷した時に起きた実話であるというような書き方をしています。それまで東京で「最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、所謂最下等の人物たちと語り合っていたものであって、たいていの無頼漢には驚かなくなってい」たという彼をして、
しかし、あの男には呆れた。とにかく、ずば抜けていやがった。
と言わしめたとんでもない「親友」と太宰とのやりとりが絶妙です。その親友のあっぱれな言動は、物語の中でものすごい力をもって加速していきますが、ことに最後の一行があまりにも素晴らしいのです。手をたたきたくなるほどですwここにその一行を書くのは惜しいのでやめておきます(笑)
ラシーヌの「アンドロマック」を読みました。一読しただけでもじゅうぶんに楽しめましたが、細部まで緊密に構成されているような印象を受けました。
ラシーヌの作品はギリシア神話やギリシア悲劇に取材したものがほとんどで、自分には前提となる西洋古典の素養が欠けているため、なかなか作品を深く理解することができません。古代の神話や文学を読んで、もっと基礎をつくらねばならぬと痛感しました。
ラシーヌの作品はギリシア神話やギリシア悲劇に取材したものがほとんどで、自分には前提となる西洋古典の素養が欠けているため、なかなか作品を深く理解することができません。古代の神話や文学を読んで、もっと基礎をつくらねばならぬと痛感しました。
大学生活も半分を終えてしまったというのに、シェイクスピアもろくに読んだことがないなんて、浅ましいというより他にない…高校時代はそういう名作よりもむしろ異端への憧れが強く、古典的な名作に触れたことがほとんどありませんでした。文科の学生として、この春休みは新規蒔き直し(笑
ところで坪内逍遥訳の「ロミオとヂュリエット」
ヂュリ おおロミオ、ロミオ! 何故卿はロミオぢゃ! 父御をも、自身の名をも棄ててしまや。それが否ならば、せめても予の恋人ぢゃと誓言して下され。すれば、予ゃ最早カピューレットではない。
ヂュリエットは何歳なのかしらんwww
ちなみに、太宰治の「新ハムレット」では、坪内氏の翻訳を少々からかったような場面があります。
レヤ(レヤチーズ)。「(前略)あんまり居眠りばかりしてないで、たまにはフランスの兄さんに、音信をしろよ。」
オフ(オフィリヤ)。「すまいとばし思うて?」
レヤ。「なんだい、それあ。へんな言葉だ。いやになるね。」
オフ。「だって、坪内さまが―」
レヤ。「ああ、そうか。坪内さんも、東洋一の学者だが、少し言葉に凝り過ぎる。すまいとばし思うて? とは、ひどいなあ。媚びてるよ。いやいや、坪内さんのせいだけじゃない。お前自身が、このごろ少しいやらしくなっているのだ。(後略)」
こんな風に書いておきながらも、はしがきのところで、「作者は軽い気持で書いたのだから、博士の弟子も怒ってはいけない」と、坪内博士のお弟子さんに釈明をしているところがかわいいw
太宰のハムレットはちょっと屈折した皮肉屋に仕立てられていて面白いのですが、僕は原作よりも先にこの「新ハムレット」を読んでしまったために、ハムレットがわからなくなってしまいました(爆
演劇っていいですねー
26日にはモリエール原作、是枝正彦氏演出の「スガナレル」を観に行きます。どんな演出なのか何も知らずに買ってしまいましたが、いまから楽しみにしています。
ところで坪内逍遥訳の「ロミオとヂュリエット」
ヂュリ おおロミオ、ロミオ! 何故卿はロミオぢゃ! 父御をも、自身の名をも棄ててしまや。それが否ならば、せめても予の恋人ぢゃと誓言して下され。すれば、予ゃ最早カピューレットではない。
ヂュリエットは何歳なのかしらんwww
ちなみに、太宰治の「新ハムレット」では、坪内氏の翻訳を少々からかったような場面があります。
レヤ(レヤチーズ)。「(前略)あんまり居眠りばかりしてないで、たまにはフランスの兄さんに、音信をしろよ。」
オフ(オフィリヤ)。「すまいとばし思うて?」
レヤ。「なんだい、それあ。へんな言葉だ。いやになるね。」
オフ。「だって、坪内さまが―」
レヤ。「ああ、そうか。坪内さんも、東洋一の学者だが、少し言葉に凝り過ぎる。すまいとばし思うて? とは、ひどいなあ。媚びてるよ。いやいや、坪内さんのせいだけじゃない。お前自身が、このごろ少しいやらしくなっているのだ。(後略)」
こんな風に書いておきながらも、はしがきのところで、「作者は軽い気持で書いたのだから、博士の弟子も怒ってはいけない」と、坪内博士のお弟子さんに釈明をしているところがかわいいw
太宰のハムレットはちょっと屈折した皮肉屋に仕立てられていて面白いのですが、僕は原作よりも先にこの「新ハムレット」を読んでしまったために、ハムレットがわからなくなってしまいました(爆
演劇っていいですねー
26日にはモリエール原作、是枝正彦氏演出の「スガナレル」を観に行きます。どんな演出なのか何も知らずに買ってしまいましたが、いまから楽しみにしています。
Medicamina Faciei Femineaeの羅仏対訳をかじり読みしてみた。以下は得られた成果…古代ローマの美顔法とはいかに!!
脱穀した小麦、卵、粉末にした牡鹿の角を粉、皮を剥いてつぶした水仙の球根、樹脂、蜂蜜をよーく混ぜる
それを顔に塗ると…
白く、鏡のようになめらかな肌が生まれる
嘘だwwwww
脱穀した小麦、卵、粉末にした牡鹿の角を粉、皮を剥いてつぶした水仙の球根、樹脂、蜂蜜をよーく混ぜる
それを顔に塗ると…
白く、鏡のようになめらかな肌が生まれる
嘘だwwwww
昨日で学祭が終わった。無料配布ということもあって、多くの人が文芸誌を持ち帰ってくれた。どういうわけか自分の詩が冊子の先頭に配置せられているため、嫌でも読まれねばならない(笑)来年必ず見返してやろう。
自分、平常は軽佻浮薄の極みとも言うべき愚か者なのであるが、創作のこととなるとやたらと力が入ってしまって、なかなか自由奔放な世界を書くことができない。変にまじめなものしか書けなくなってしまう。ものを書くからには「多様性」を大事にしたい。創作に限らず、「この人にはこんな面もあるのか」という幅広さには思わず恍惚としてしまうw
たとえば森鴎外の「大発見」 これは高校生の頃に鴎外全集の中で大発見した短篇小説なのだが、最近ではちくま日本文学に採録されたので、より多くの人に読まれているかもしれない。
洋行したベルリンの公使館で閣下に、日本人は「人の前で鼻糞をほじる国民」となじられたことに疑念を感じた鴎外が、日本人だけでなく西洋人も鼻糞をほじるのだということを「大発見」するという話だ。鴎外の脳内で起こる議論がまた素晴らしいw
「そもそも鼻糞は白皙人種なると黄色人種なるとを問わず、必然鼻の穴の中に形成せられるべきものである。しかるに日本人がそれをほじって、欧羅巴人がそれをほじらないのはなぜであるか」
やたらと格調高い文体と俗なる(?)内容とのずれが面白い。いや、先生にとっては洋行先で「日本人」を馬鹿にされたのだから、たいそう切実な問題であったのだろう。西洋人は鼻糞をほじらず、ハンカチで揉み潰すという。鴎外はそれを卑怯という。
「揉み潰すなんぞは姑息の手段である。ほじるのラジカルにしかない」
先生、必死だwwwそうこうして西洋人が鼻糞をほじるという決定的な証拠をつかんだ時の一節が美しい。
「欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。この大発見はもはや何人といえど、抹殺することは出来ないであろう」
どれほど悔しかったんだ、鴎外wwww
こういうものを読むと、やはり人間の多様性と意外性って魅力だな、と思ふ。
自分、平常は軽佻浮薄の極みとも言うべき愚か者なのであるが、創作のこととなるとやたらと力が入ってしまって、なかなか自由奔放な世界を書くことができない。変にまじめなものしか書けなくなってしまう。ものを書くからには「多様性」を大事にしたい。創作に限らず、「この人にはこんな面もあるのか」という幅広さには思わず恍惚としてしまうw
たとえば森鴎外の「大発見」 これは高校生の頃に鴎外全集の中で大発見した短篇小説なのだが、最近ではちくま日本文学に採録されたので、より多くの人に読まれているかもしれない。
洋行したベルリンの公使館で閣下に、日本人は「人の前で鼻糞をほじる国民」となじられたことに疑念を感じた鴎外が、日本人だけでなく西洋人も鼻糞をほじるのだということを「大発見」するという話だ。鴎外の脳内で起こる議論がまた素晴らしいw
「そもそも鼻糞は白皙人種なると黄色人種なるとを問わず、必然鼻の穴の中に形成せられるべきものである。しかるに日本人がそれをほじって、欧羅巴人がそれをほじらないのはなぜであるか」
やたらと格調高い文体と俗なる(?)内容とのずれが面白い。いや、先生にとっては洋行先で「日本人」を馬鹿にされたのだから、たいそう切実な問題であったのだろう。西洋人は鼻糞をほじらず、ハンカチで揉み潰すという。鴎外はそれを卑怯という。
「揉み潰すなんぞは姑息の手段である。ほじるのラジカルにしかない」
先生、必死だwwwそうこうして西洋人が鼻糞をほじるという決定的な証拠をつかんだ時の一節が美しい。
「欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。この大発見はもはや何人といえど、抹殺することは出来ないであろう」
どれほど悔しかったんだ、鴎外wwww
こういうものを読むと、やはり人間の多様性と意外性って魅力だな、と思ふ。